2012年

3月

31日

1年経って~ @cont_mama

@portal311のツイッターアカウントで 去年のフクイチの事故後からの

長いお付き合いとなった「まっちゃさん」。

彼女が、長い長い文章を140文字で連続投稿した。そのまま流れてしまっては

とても勿体無い内容だと思い、こちらのHPに掲載しても良い?とDM。

快くOKを下さいました。

 

私は、福島県内に住むまっちゃさんがご自身の周辺に起こる出来事におびえ

それでも冷静な判断をしようとしている姿勢をツイッターを通して拝見していました。

ある日突然安心派になってしまったご友人のこと…胸が詰まる思いだった。

彼女が、悩んで考えて北海道へ避難することを選択した。北海道へ発つ前の夜

彼女は泣いていた。眠れないというツイートを目にした…。

心が揺らいで出発を見送るのではないか?とさえ思え、先に避難していたなえさんに

彼女とメンションを交わして欲しいとお願いした。

 

まっちゃさんが、福島で感じていたこと・避難で揺れ動いたこと・北海道へ避難してからのこと

この1年を綴ったツイートをまとめさせて頂きました。

 

ツイートまとめということで、こちらでまとめさせて頂いた順番が違う部分があるようで

ご連絡頂きました。ツイートの順番どおりの記録は

http://saidakaori.com/cont_mama_twitter/index.html こちらになります。

 

当方で確認し、抜けているツイートは追加で書き込みしました。

あちらの記録に無いツイート部分は、連投の間で交わされたツイートを

そのままコピーした記録となっております。あらかじめご了承下さい。

 

 

 

 

 ~あの日から今日まで~   @cont_mamaの1年

去年、私は3月の終わりくらいまで生きていくのに必死だったこともあって、

「ここで生活するんだ、できるんだ」って思いこもうとしてた。

でも、本当は内心、震災直後の大混乱の中、なりふり構わず仕事も放り出して

遠くへ逃げた人たちが気になっていた。普段は冷静な友人が、そうしていたから。

 

でも、その友人が私に電話をして来て「そちらの放射線量はどう?」と聞いてきた時、

「そんなに遠くにいるのに、関係ないでしょう!」と言ってしまった。

後になって思えば、自分の家がある場所の事、心配していて当然なのに。

だから私はわかるんだ。

「外から危険危険と言われることが嫌だ」って気持ちが 海外に住む弟が

「今すぐこっちに子どもたちをよこしなさい」って言ってきた時だって、

(パスポートなかったから無理だったけど)

「こっちだって必死に生活してるんだよ!避難とかそんなに簡単にできるはずないでしょう!」

って言い返した。(ここで頑張ってる人だってたくさんいるんだ)と思いながら。

 

震災後、電気もネットも直ぐに戻ったのに、私はmixi以外を見ようとしなかった。

怖くて、一度見てしまったら、もう自分がその場所にいられなくなるだろうって、

わかっていたから。

mixiでは友達が「大丈夫?よかった、無事で」と言ってくれた。

誰も、放射能は危ないから、なんて言わなかった。

 

でも、母親として、あの場所で生きていくためにはきっと無防備ではいられない

ということは気付いていた。

だから子どもたちだけは守っていた。2週間、ほとんど外出はしなかった。

食材も、絶対に地元の物は買わなかった。でも、ずっとそうしてはいられなかった。

 

外に出さなければいいか、から、ちょっとだけなら、マスクさせればいいか、になり、

お散歩くらいいいよね、って。

それでも、マスクと帽子とナイロンの上着は必ず着せていたけれど。

雨とか雪には極力濡れないように、って気をつけたりもした。

 

そんな状態で1日、1日と過ぎていく。不安が、どんどん募る。

でも、生活しなくちゃいけない。確かあの時、主人が言ったんだ。

「親戚の家にお前たちだけでも行っていたら?」って。

でも、毎日毎日大きな揺れが襲うようなところに、主人だけ残して行くなんて、

申し訳なくて出来なかった。

 

自分の中で、必死に生きてる自分と、このままいつまでこんな状態なのかと思うと、

子どもたちが心配で夜も寝られなくなる自分が毎日闘っていた。

そのうち、せめてテレビに流れる市内の放射線量の意味くらい理解したいとおもって、

恐る恐るネットを見始めた。

 

最初に読んだのが、武田先生のブログだった。

おおざっぱだったけど、大体の被曝量をこんな風に計算したらいい、っていうのが

載っていて、計算してみた。

どう考えても、そこにずっと住み続けられる数字じゃないって思った。

テレビでは、バナナ食べても被曝するから大丈夫、とか言っていた。混乱した。

 

本当のことがわからないというのは、こんなにも不安なのか、とつくづく感じた。

どこに助けを求めていいのかわからなかった。

毎日、毎日、むさぼるようにネットにかじりついて情報を集めた。

近所の詳しそうな人に聞いたりもした。

友人の1人は「すごく危険だと思うから講演会に行ってくる」と言っていた

 

講演会から戻ってきた、いわゆる「危険厨」だった友人は、なぜかマスクを外して

うちの玄関前に立っていた。

前日の心配そうな表情はいずこへ、笑顔だった。

「あのね、このくらいの放射線は何の心配もないんだって。子どもたちも外で遊べるし、

布団も干していいし、問題ないんだって。よかったね!」と。

 

ご丁寧に、友人は講演会の内容を細かく書き留めて、コピーをしてくれていた。

「100ミリまで、何の心配もないって、山下先生がおっしゃっていたよ。

ご自分も被爆2世なんですって。こんなに健康です、って。

わざわざこんなに遠くまで来てくれて、有り難いわよね。安心したわ。

みんなにも配ってくる」

 

友人は満面の笑みで隣近所へ講演会の内容のコピーを配りに行った。

私は部屋に戻って読んだ。

大丈夫、だいじょうぶ、心配ない、問題ない、子どもも大丈夫、外で遊びましょう、

マスクも要りません・・・

本当なら、嬉しいはずの内容が、妙に白けて見えた。

あんなに心配してた友人の変わり様も怖かった。

 

私があの時「あーよかった。やっぱり安全なのね」って思えなかったのは、

母親としての勘だったんだろうか。

いまだにわからないけれど、あの友人の笑顔を見た瞬間、

「何かとんでもないことが起きてるに違いない」って感じたんだ。 

それでも、まだ、家や仕事を捨てて遠くへ逃げるとは思えなかった。

 

そこで、出来る限り危険にさらされずに生きていくにはどうしたらいいのだろうか。

私は必死で考えた。

私みたいな主婦が、原子力とか、放射能とか、全然知識もない一般人が、

いくら考えたって出てくるアイディアなんてたかが知れてるのに、

それでも、考えずにはいられなかった。

 

春休み中に、県からの御用アドバイザーの講習を受けさせられていたんですよね

私が校庭除染をするまで新学期を始めるな、といって資料を山ほど持って行った時も、

その資料を見ることすらしませんでしたから。

 

ちょうどそのころ、ずっとやっていたmixiに放射能のことを書くと誰もコメントを

してこない事に気がついた。

みんな、当たり前のように、日常生活を送っていた。

ディズニーランド、早く行きたい、なんて、毎日書いてる人もいた。

読むのが辛くなって、mixiからは距離を置き、ツイッターを始めた。

 

震災直後から休校になっていた学校だったが、1週間ほど遅れて卒業式をやるから

来賓として参式してくれと連絡をもらった。

あちこちに避難してる子どもたちが、戻ってこようとするだろう。

でも、節目の式をやってあげたいという気持ちも痛いほどわかった。

卒業生の保護者の方々の希望が多かった。

 

体育館は使えなかった。校舎の中のランチルームで、規模を縮小して行った卒業式。

ほとんどの卒業生が出席していた。中には中学校の制服を取りに行けず私服の子もいた。

私は学校に着くまでマスクを2重にしていたが、久しぶりに友人と会って

喜ぶ子どもたちの顔を見て、マスクをそっと外して出席した。

 

卒業式をやってしまった・・・というどうにもならない罪悪感と、やってよかったんだ

という気持ちが入り混じって、苦しかった。

その頃、ネットでは食べ物の汚染の話から土壌汚染の話へと進んで来ていたから。

あの広い面積の砂や土だらけの校庭に、何も降り積もってないはずがない。

当たり前のことだった。

 

このままだと、何事もなかったかのように、4月から新学年が始まるだろう。

いいんだろうか。いや、いいわけがない。もう、頭がぐちゃぐちゃだった。

ひとたび学校が始まれば、うちの子だけを休ませておくこともできない。

入学式だってやるだろう。その時、どうしたらいいんだろう。何ができるのか。

 

無駄だろうとは思いつつ、ネットで調べた土壌汚染についての資料をどっさり持って、

校長室へ。その時、校長先生と教頭先生はあらゆるつてを使って放射線測定機を

借りてきていた。校庭や校舎内をすでに測っていた。

でも、私はその数値を教えてもらえなかった。「大した数値ではなかった」と言われた。

 

校長先生は私が持参した資料を「貴重な御意見、ありがとうございます。」と

言って机の上に置き、開くことはなかった。

 

「校庭の土を入れ替えてください」と私は意を決して言った。

でも、返って来たのは苦笑いとこんな言葉だった。

「みてください、この校庭の土をどうやってはがすんですか」

 

無力だった。いつも、わがもの顔で役員として学校に出入りしていたけど、

こんな時に何もできない自分が悔しかった。同じ役員も、強くは言わないけど

「そんなに心配したってしかたがない」と言いたげなのはわかっていた。

私は、だんだんと、言葉を失って行ってしまった。

 

そして、新学年が始まった。入学式も、おなじようにランチルームでおこなった。

真っ青な空が大きな窓から見えて、ポカポカ暖かくて、新1年生は椅子に座ると

足が床につかなくて、みんな、足をプラプラ揺らしている、そんな何度も見てきた

入学式の風景だった。

 

「登下校はマスクをしましょう」・・こんなルールのもとで、学校が始まった。

でも、マスクをしてる人数はどんどん減って行った。

春の遠足が近づいてきた。また黙っていられなくなった私は、こんな状況の中、

長距離を歩かせる遠足なんて中止にしてくれと学校に直訴した。

「遠くまで歩く」遠足だったから。

 

遠足前日、「校長が全学年の全ルートを歩いて放射線量を測ってきた。

が、問題のある場所はなかった」と言われた。

その時も数値は教えてもらえず、「年間の基準値より全然低いですから」という

意味不明な説明だった。

ところが、遠足当日「強風のため中止にします」と連絡が。雨も降ってないのに。

 

遠足のルートが安全だなんて言っていたけど、実はそうでもなかったんだろうな、

って何となく感じた。

中止にしてほしいという意見も、きっと届いていたんだろう。

とりあえず、束の間の安心だった。が、ちょうどその頃、息子が鼻血を出し始めた。

 

今までの鼻血とは明らかに出方が違う。鼻をいじっていたわけでも、風邪ひいて

調子が悪かったわけでも、のぼせるほど暑かったわけでもない。

ただ、普通に食事をしてる最中に、ポタ、と鼻血が出始めるんだ。

私は血の気が引いた。でも息子はまだ、「げ!鼻血!」って笑っていた。

 

一難去ってまた一難。5月には運動会が立ちはだかっていた。

やるか、やらないか、というレベルの話し合いは予定されていなかった。

「どうやって行うか」だった。

運営会議の中で、私だけが

「なぜこんな時に、今、運動会をしなくてはいけないのか。

秋に延期することはできないのか」と言った。

 

思い切り孤立していた。あの会議の、あの時の空気は忘れることができない。

5月の運動会は中止に、という私の意見は、先生方からより他の保護者からの

反発を受けた。最後の学年なのに、何でもかんでもダメダメはかわいそう

大丈夫だって言ってるんだから、大丈夫なのでは?と。

 

ちょうどその頃、子どもたちの同級生のママと連絡を取り始めていた。

彼女も、被曝の影響を心配して、出来ればどこかに避難したいと言っていた。

彼女と話をするようになって、私の中にもどこか遠くに行くと言う選択肢があるんだ、

という気持ちがうまれ始めていた。それでも、時間は流れて行った。

 

その頃の私は、逃げたい気持ちと、留まってどうにか頑張りたい気持ちとでゴ

チャゴチャになっていた。

仕事も、子どもたちと関わる仕事だったこともあり、自分がそこで仕事をすることが、

余計に子どもたちを危険な目にあわせているのでは、という気持ちにさいなまれて、

仕事が辛かった。

 

運動会は、予定通り実施することになったが、ジタバタする私がうるさかったからか、

「全競技の合間に校庭中に散水する」

「外でお弁当を食べなくてもいいように、午前中で終了」

「希望者は長そで長ズボンマスク着用でもOK」という条件がついていた。

 

少し前から避難について考えていたママ友が、ある日

「決めました。京都へ行きます。先に行って待ってます」と連絡をくれた。

頭を何かでぶんなぐられたような衝撃だった。逃げたいとか、遠くへ行きたいとか、

口では色々言いながら、その実、心の中では

「そんなの、無理だよ。大変すぎる」って思っていた。

 

でも、ママ友が本当に後ろを振り向くこともせず、ものすごい決断力で子どもさん

2人を連れて避難して行く姿を見て、自分だってできる、もっと真剣に考えなくちゃ、

という気持ちが一層強くなった。

でも、誰に相談することも出来なくて、1人で一生懸命情報を集めた。

住宅や土地柄、学校。寝られなかった。

 

避難したい、という気持ちを、主人にも、両親にも言えなかった。

どう思われるか。

主人も行くというだろうか。年老いた両親は、情報不足で私をバカだと笑うだろうか、

そんなことを思うと、口に出せなかった。

そんな時生まれてから1度も鼻血など出したことがなかった娘が学校で大量の鼻血を出した。

 

まだそれほど暑くもなかったし、なんといっても、一度も鼻血なんか出たことがない娘。

授業中に突然、机の上のノートが真っ赤になるくらい、鼻血が出た。

白いセーラー服も真っ赤になり、30分近く止まらなかったそうなのに、

担任も保健の先生も、一言の連絡もなく、制服は洗濯されていた。

 

娘はもう中学生。テレビや、ネットで流れる情報も、ある程度わかっていた。

自らマスクを2重にして、一度も外したことがなかった。

子どもなりに、心配して、自衛していたんだ。大量の鼻血を出した自分が、

もしかしたら何か影響を受けているのではと不安になって私に聞いてきた

「ここにいて大丈夫?」

 

大丈夫だと言っていいのか、危険だと言うべきなのか、言葉にならなかった。

娘の鼻血はその1回だけだったが、息子は結局4回も鼻血を出した。

2回目までは笑っていた。でも3回目は泣いていた。

「死にたくないよー」って言っていた。

私は「死なないよ、大丈夫、大丈夫だから」と抱きしめるしかなかった。

 

隣に住んでいる実の両親は、それまでいつも私が仕事の時は晩御飯を子どもたちに

食べさせてくれていた。でも、いつからか、私はなんとなく母が作ってくれていた食

事が信じられなくなってしまっていた。

母は、特に放射能について語らなかった。

知らないのだろうと決めつけて、食事を断ることもあった。

 

ある日、母が言った。

「最近、ちょっと遠くの野菜も手に入るよね、よかった。

子どもたちには出来るだけここのものは食べさせたくないもんね。

こんな生活、本当に不自由だよね」と。

それを聞いて、私は、泣き崩れてしまったのだ。母は、私なんかよりもっともっと、

心配して調べてくれていた。ごめん。

 

仕事の時間が不規則な主人とは、なかなかゆっくり話をする機会がなかった。

なんとなく、避けているのかな、とも思えてきていた。

でも、何をどう言ったらいいのか、もし、避難したいと言って反対されたり

否定されたりバカにされたらきっと立ち直れないだろうと思うと、口に出せなかったんだ。

 

でも、日々、避難したい、しなくては、という気持ちは募っていった。

学校は、どんどん無防備になっていた。

娘は部活で外を走らされ、線量の高い場所で練習試合を組まされた。

息子は長そで長ズボンマスクで運動会の練習をしていた。

 

ある日、ツイッターで朝のワイドショーで自主避難を特集すると聞いた。

その頃、やっと各地へ避難して行った人たちが取り上げられ始めていて、

その時はちょうど長野県の松本市へ避難した親子さんのことをやっていた。

私は何食わぬ顔で、主人が見ていたテレビをその番組にかえた。主人は無言で見始めた。

 

「放射脳を浴びれば強くなるんだから、線量が高い所で試合をやるぞ」と

言った顧問もいたそうです。

まぁ、1年前のはなしですから、今はどう変わったのかわかりませんが・・・。

 

 

主人は黙ってテレビを見ていた。テレビの取材に答えていた方は、

小さなお子さんを外で遊ばせることができる、マスクも必要ない」と言っていた。

番組が終わった時、主人が言った。

「住むところがどうにかなるなら、お前たちだけは早く避難した方が

いいんじゃないか?それとも、もう遅いのか?」

 

堰を切ったように、受け入れてくれる場所があることや、他にも色々と支援体制が

整いつつあることを説明した。主人の決心は早かった。

「じゃ、来週長野へ下見に行くぞ」。 

ただ、主人は

「仕事は今スグにやめられない。この年齢で同じ給料がもらえる仕事があるとも思えない。

とりあえず、お前たちだけ」

 

そうだろうとは思っていたけど、避難するなら家族がバラバラになるのだという

現実が辛くて、せっかく主人が避難しなさいと言ってくれたにも関わらず、

私の決心は逆に揺れてしまった。

私が子どもたち2人を連れて見知らぬ場所で生活なんて出来るだろうか。

ここに残る主人や両親に申し訳ない気持ちも。

 

震災後いつ余震が来るかわからず怖かったので、私と子どもたち二人は同じ部屋で

寝ていた。寝る前に、

「もしここから引っ越しをするとしたら、転校になっちゃうけど、

ついてきてくれるかな?あなたたちの体がね、心配なんだよ」とよく話していた。

2人とも、「行くよ」と言ってくれていたのが救いだった。

 

隣の両親に、避難するかもしれないと伝えた。母は

「やっと決めたんだね。よかった。こっちからあれこれ言うと、

きっと困るだろうと思って言えなかったけど安心した。

パパ(主人)のことは任せなさい。安全な物使って食事作るから」と言ってくれた。

 

私は、こんな年になってもまだ母に迷惑をかけるのかと 本当に本当に、

申し訳なくて涙が止まらなかった。

なぜこんなことになったのか、大事な家族と離れ離れにならなくちゃいけない、

私が何かしただろうか?悪いことをしただろうか?私が何も気にせず普通に

暮らしていられる人だったら、子どもたちも転校なんかしなくて済んだのだろうか、と。

 

主人も、1人暮らしは経験あるし、大丈夫、お義母さんにご飯は頼ってしまうけど、

それ以外はできるし、お前たちが安全なところにいてくれれば、もしまた何か

事故があっても、お義父さんとお義母さん連れて逃げる場所があるから助かるよ」

と言ってくれた。その数日後、長野県上田市へ下見に行った。

 

本当は松本市にしようと思っていたが、テレビで流れた影響か、住宅に空きがなく、

キャンセル待ちだと言われた。出来るだけ距離が遠い場所がいいとは思っていたけれど、

海を越えることがとてつもない壁となっていたため、まずは陸続きの長野県に絞った。

 

上田市はこじんまりして素敵な場所だったが、空いている住宅が狭すぎて、

うちのように大きな子どもを連れて行くとなるとちょっと厳しいことがわかった。

6時間もかけて行ったけど、結局あきらめるしかなかった。

がっかりしてる私に主人が言った

「どうせなら、思い切って遠くへ行った方がいいよ」

 

「避難する理由を考えたら、ある程度の安全が確保できる場所じゃないと、

後で後悔することになる。北海道か、沖縄か、どっちかがいいと思う」私も同意だった。

子どもたちに意見を聞いてみた。2人とも、口を揃えて

「北海道がいい。暑いより寒い方がいいから」と言った。行き先が決まった。

 

行き先が決まってからは、すべてがあっという間だった。

1日でも早く子どもたちを遠くへ連れて行きたい、そう思う一方で、もう小6と

中2になる子どもたちの気持ちを無視することはできなかった。

2人とも、思うところはたくさんあっただろうが、一度も行きたくないとは言わなかった。

 

娘も息子も、1学期だけはここで、と言った。

私は頭の中で(3月から4カ月も経ってしまう)と思った。

もっと早く、出来るだけ早く、そう思ったけれど、大事なものをたくさんたくさん

手放して行く覚悟を決めてくれている子どもたちの、心も大事にしてあげたかった。

出発日を1学期終業式翌日に決めた。

 

北海道の受け入れ態勢は素晴らしかった。

雇用促進住宅は、電話したらすぐに申込書をFAXしてくれて、私も直ぐに記入して

返信した。同時に、入居前の準備期間として3泊のホテル予約も無料でしていただけた。

金持ちでもない我が家は、潤沢な避難資金があるわけではない。本当に助かった。

 

家電は、避難先に入居してから3週間ほどで支援物資としていただけるとわかったが、

真夏で冷蔵庫がないままの3週間は厳しい。

洗濯だって、大きな子どもたちがいれば毎日するだろう。

やはり、出費があれこれと出てくる。そんな時、ツイッターでは見ず知らずの方が

洗濯機を譲って下さると。

 

そんなありがたい御縁もあるのだと、心から感謝して譲っていただいた。

その方はその後、やはり御縁があったのか北海道へ移住され、まだお会いするチ

ャンスはないのだけど、連絡を取り合っている。

そして、ツイッターには、おなじように北海道へ避難する人、した人が大勢いて、

ほんとうに心強かった。

 

小学校の運動会の前日、準備でバタバタしていた時、何気なく校長先生と話をした。

「やっぱり、ここまできても、秋に延期できなかったのか、って思ってしまいます」と

私が言ったら、

「基準値、今は20ミリだけど見直されて厳しくなったら、運動会は出来ないかもしれない。今やらないと」と校長が言った。

 

ちょうどその頃、娘はもう気持ちが切り替わっており、北海道の転校先の学校の

HPを見たりしてけっこう楽しそうにしていた。

でも、息子は、嫌だとか行きたくないとか一言も言わない代わりに、避難先の事は

何一つ聞いて来なかった。転校先の学校名さえ、聞こうとしなかった。

私は少し心配していた。

 

もしかしたら、息子は行きたくないのではないか、男の子だから、父親と離れるのが

辛いのではないか、おじいちゃん、おばあちゃんが大好きだったから、寂しいのでは

ないか、色々考えると、避難すること自体、本当に子どもたちのためになるのだろうか、

とまで考え始めてしまって、苦しかった。

 

そんな息子を見ていたら、運動会に出るなとは言えなくなってしまった。

別に運動が好きなわけじゃない息子だが、「出たい?」と聞いたら

「あたりまえでしょ」って言われてしまった。

でも、「ちゃんと長そで長ズボン、マスクもして出るから」と自分で言った。

そんな姿の運動会って・・・と複雑だった。

 

子供たちをつらいめにあわせているんだろうか、と悩んでいた時に、校長先生の

「今、運動会やらなくちゃ出来なくなっちゃうよ」という言葉を聞き、

(あぁ、ここに子どもは預けられない。避難は正解なんだ)と確信した。

私がつらそうだと、子どもたちももっとつらくなる。絶対に笑っていようと決めた。

 

息子のことが気になっていたが、特に嫌がることもなく荷造りしたり、先生へ転校の

挨拶に行ったりしていたので、時間が解決してくれるかな、と思うようにした。

とにかく、親が不安そうだったり、嘆き悲しんでいたら絶対に子どもにもそれが

うつってしまうと思い、明るく明るくと呪文のように唱えていた。

 

ツイッターで知り合った、同じく札幌へ避難する予定の方が、息子と同じ年の

息子さんがいる、とわかった。息子にそれを話したら、ちょっと表情が変わった。

はじめて、「へー、どんな子かな?ゲームとか、するかな?いつ行くんだろう」って

聞いてきた。やっぱり不安なんだな、と思うと、胸が痛んだ。

 

娘は親の私が思うよりずっと強かった。すごく仲のいい友達が複数いて、みんなで

同じ高校へ行こうと約束していた。でもきっと自分は行かれない。

どう思っているんだろうかと心配していたが、

「元気でいればまたいつでも会えるからさ」と満面の笑みでこたえた。

私はこの言葉にどれだけ救われただろうか。

 

1学期の終業式。札幌への出発を翌日に控え、最後の挨拶を小学校と中学校へしに行った。

小学校の担任の先生は、涙を流して

「さびしいです。ごめんなさい、守れなくて」と言ってくださった。

でも息子は平然としていた。先生は、「最近の写真と皆からのメッセージです」と

アルバムにしてくださった。

 

中学校では、娘は部活に出てから帰ると言っていたので遅い迎えになった。

職員玄関では、担任の先生、教頭、校長、学年の先生、部活の顧問がずらっと

出てきてくださり、「またいつでも帰ってきてください」と言ってくださった。

娘も、平然としていた。先生方は泣いていた。友達も泣いていた。

 

2011年7月21日、私たちは14年間暮らした家を出た。

そんな事、まったく望んでいなかった。ささやかだけど家族みんなで、とても幸せな

生活を送っていたんだ。家を出る時に、主人が部屋を振り返って言った言葉は、

今も胸に突き刺さっている。

「あー今度帰ってくるときは、ここに1人で戻るのか」

 

両親も、泣かなかった。私も、泣かなかった。子どもたちも、泣かなかった。

みんな、こうするしかないのだと、わかっていたから。心の中は張り裂けそうに辛くて、

出来ればどこにもいかず皆で一緒にいたかったけど、それはできなかった。

後戻りはできなかった。後で後悔するのは嫌だった。

 

仙台港からフェリーに乗った。子どもたちは、笑顔だった。

主人も「ほっとした」と言っていた。私も、家を出た時の何とも言えない気持ちが

おさまり、フェリーに乗る頃には先のことを考えることができていた。

仙台港は、テレビで見たあの光景が本当に広がっていた。

これは現実なんだとあらためて思った。

 

 

7月22日、苫小牧へ到着。主人は旅行で来たことがあるものの、私も、子どもたちも

初めての北海道。

なんだか、外国へ渡るかのような寂しさがあったけど、いざ着いてみたら、

あたりまえだけど、普通に、そこは、日本だった(苦笑) 

子どもたちはすごくテンションが高く、楽しげだった。

 

 

とりあえず、避難までの諸々はここまで。

 

ただ一つだけ、いまだに泣けてしまうことがある。

一度も転校を嫌だと言わなかった息子。最後の日も泣かなかった。。。と思っていた。

が、違った。先生が下さったアルバムの中には、お別れ会で皆に囲まれて

号泣する息子が写っていた。どれだけの寂しさだったか。

 

男のプライドがあるんだろうな、きっと。だから、写真見たよ、なんて、

息子には言って無い。

でも、きっとつらかったんだろう。卒業まで半年だったのに、本当にごめん。

何度も心の中でそう謝った。

そして、それ以降そのアルバムは一度も見ることが出来ていない。 

いつか、また、見られる日がくるのかな。

 

 

長々とお付き合いいただいた皆様(って、勝手に呼んでもらえてると思ってる私・・・)遅くまですみませんでした。

夜中で、ネオチしそうな状態だったため、タイプミスとか多くてすみません。

明日の札幌は冬将軍再来らしいです。皆様、どうかお体大切に。

おやすみなさい。沢山のRTありがとう。

 

 

そうだ、しつこく最後にもうひとツイ。

避難して8カ月。娘は多くのお友達と素敵な先生方に支えられ、本当に楽しく

学校生活を送っています。

来月から受験生!息子もいい友達がたくさんできて、来月から中学生です。

私もパートですが仕事が決まり、ただいま研修中。主人は月に1回来道してます。

 

 

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はじめまして。

こんな時間に、なんだか重い内容の連続ツイで皆さん一気にドヨヨーーーンとして

しまったのではないかと・・・申し訳ありません。

私たち家族のことだから、心にとどめておけばいいことなのかもしれませんが、

こんな人もいるんだ、って知っていただければと。

避難した私たちがした苦労は、残っている方々の苦労とくらべたら、

大したことないのかもしれません。

私は避難するまでの方がずっとずっと辛くて大変でした。

でも、本当はこの避難は何の意味も無かったね、っていう未来が

来てほしいと願っているんです。

これが全部書けたってことは、私の中ですごく気持ちが落ち着いて、

冷静に振り返ることが出来てきたということ。

それでもまだ、書きながら涙が出ることもあるけど、これでいいんだ、

って本当に思えるからかけたんだと思います。

 

これは私の考えですが、「虐め」と、「馴染めない」のとは違うと思います。

ただ、馴染めないでいる生徒に、周囲がすこしだけ寄りそってあげたり

言葉をかけてあげるだけでも、違うかと思いますが。

「子どもはどこに行ったって大丈夫」ってよく聞くけれど、それは個人差があります。

すぐに皆と遊べる子もいるし、なかなか話しかける事さえできない子もいる。

それが=虐めではないんですよね。

娘はよく「こっちの友達は、1人1人が違う事をしていても気にしない。

だれも、おかしいとか言わない。そこが好き」って言ってます。

 

          【まっちゃ】

 

 

 

 

 

暮らしている場所から離れることを決心することは大変なことだと思います。

原発の事故があり、しだいに明らかになっていく放射能汚染。

汚染されていない食べ物を摂取することが重要なことですが、放射能汚染の原因となっている

場所から少しでも遠くへ逃げることが最も重要なことであると、バンダジェフスキー博士も

来日講演で仰っていました。

 

 

福島県から北海道へ避難・移住されている方々は沢山いらっしゃいます。

避難は、地元を捨てて逃げるということではありません。放射能汚染の原因となっている

場所から遠ざかることを避難と言います。

 

 

 

 

 

 

 

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チェルノブイリの教訓

中部大学・武田教授のブログ

静岡大学防災総合センター小山真人教授からのメッセージ

心の防衛機構「解離

避難遅れる正常性バイアス

高知県東陽町長日誌

原発がどんなものか知って欲しい

心援隊のブログ

風評と言えるのか?

リスクと付き合う

森住卓のフォトブログ

小出裕章氏の非公式まとめ

低線量内部被爆について

自己造血幹細胞の採取と保存計画についてSave Fukushima 50

木下黄太氏のブログ

福島県の隣で迎えている現実

柚木ミサト~こういうこと

疋田さんのブログ

子供に分かりやすく説明する絵

 

 

 

 

■情報提供交換サイト

savefukushima twilog
FOR OUR CHILDREN
子を思う親たちの有志の会
mixiコミュ~繋ぐ命~

 被ばくから子どもたちを守れ

原発に不安を感じるママの会

ハイロアクション

福島の子供たちを守ろう

子供たちを放射能から守る

  福島ネットワーク 

SAVE CHILD子供を守ろう

nanohana

SAY-Peace PROJECT 

MSCR

mamaとmamaを繋ぐサイト

製造所固有記号@ウィキ

赤ちゃん一時避難プロジェクト

福島第一原発を考えます

福島大学原発災害支援forum

 

 

 

■疎開・避難情報
・都道府県別
 震災被災者対象住宅支援情報

産婦人科被災者受入病院情報

母子疎開支援 hahako

チェルノブイリへのかけはし

 

 

■動画
ニュースの深層

 福島第一原発と放射能汚染
田中優さん講演

 放射能を正しく知ろう

村上誠一郎氏質疑

 東京は既に被爆していた

子どもたちを放射能から守れ

 5月2日政府交渉

小出裕章氏講演

 大切な人に伝えて下さい

小出裕章氏講演

 内部被爆の重要性

 晩発性障害・急性障害

小出裕章氏講演

 20mSv/yは子供25人に1人が

 癌死する

 .フジTV・とくダネ2011.5.10

  福島の子供たち20問題

  (削除されました)

福島講演/武田邦彦5/16

  二本松講演 

【冒頭陳述】参考人武田邦彦

  2011.5.18

山本太郎氏のメッセージ

 

 

 

■文科省

全国の放射線モニタリングデータ


■ご意見ご要望フォーム
文部科学省

 

 

■補償

原発損害の補償について

原発東電補償相談室

 

■被災地支援物資情報

できること

 

 

■ペット関連

 

被災動物義援金募集中です

 

福島被災動物レスキュー

被災地で保護されたペット情報

 

・原発の避難区域で

 犬が保護された瞬間です

 ご自身の犬はいませんか?

 

・Japan Dog Standard (NPO)

   facebook ウォール

 

福島県動物救護本部

 20km圏内で保護された

 ペットたちのリストです

 保護された犬のリスト写真 

 保護された猫のリスト写真

 

ボランティアによる保護状況

 

 

 

 

 

東北地震犬猫レスキュー.com

 

 

 

 

 

 

◆資料◆

福島学校調査 

 

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